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森保一監督(ポイチ)の若い頃・現役時代や経歴を紹介!性格・人柄の詳細情報も


2022年11月開催のカタールワールドカップに挑むサッカー日本代表。

その指揮官である森保一監督(ポイチ)ですが、元Jリーガーで現役時代は日本を代表するボランチだったことはご存じでしょうか。

またA代表を指揮する以前は若年層のコーチや、日本の歴史的な実績を残した監督でもあります。

そんな森保一監督について若い頃の現役時代や、具体的な指導歴・監督歴などの詳細をお届けしていきます。

森保一監督(ポイチ)の若い頃の画像を紹介!

まず現サッカー日本代表・森保一監督(ポイチ)の若い頃、現役のJリーガーだった時の画像をいくつか紹介します。

これは1992年、森保監督が初めて日本代表に選ばれスタメンに抜擢された時の写真ですね。

若干23歳、森保監督の若い頃は爽やかなルックスと精悍な顔つきのイケメンです。

ちなみにこの記念すべき代表デビューの相手が、世界トップレベルのサッカー強豪国のアルゼンチンということも凄いこと。

次はサンフレッチェ広島時代の一枚。

サンフレッチェ広島における森保一という人物は、選手・監督の両方において多くのサポーターが崇拝するレジェンドですね。

これは試合中の写真だと思いますが、なぜかゴリラのようば気合の入り方をしている森保さん。

身長174cmで体格的に優れていた選手でもなかったのですが、ボール際の攻防・デュエルに長けた名ボランチでした。

サンフレッチェ広島からベガルタ仙台に移籍。

キャプテンを任され、チームの精神的な支柱として活躍しました。

結果的にベガルタ仙台で現役選手としての引退を向かえます。

現役時代と現在の森保監督が一目でわかる画像。

もちろん容姿は変化していますが、今も若い頃も温厚で素朴な人物であることが伺えますね。

森保一監督(ポイチ)の現役時代の主な経歴・活躍

森保一監督(ポイチ)のプロサッカー選手としての詳しい経歴について。

現在の日本代表監督がどのような現役時代を歩んできたのか、時系列順に紹介していきます。

長崎日大高校を卒業しマツダへ入社

まず森保一監督(ポイチ)の母校・卒業高校は、長崎県諫早市になる「長崎日本大学高等学校」です。

この学校のサッカー部に3年間所属し、この当時は攻撃的MF。

ですが長崎県内では「国見高校」が絶対的王者に君臨していたため、3年間で1度も全国大会に出ることはありませんでした。

なのでかつての森保さんは、高校レベルでも完全に無名な存在。

そして卒業を控え進路が迫られる時期になるわけですが、森保一さんはやはりサッカーを続けたいと考えました。

ちなみにその当時は、日本サッカーはまだプロ化されておらずJリーグは存在しません。

なので進学して大学のサッカー部に入団、または実業団チームを持つ会社に就職するかのどちらか。

そして森保さんは長崎日大高校サッカー部の顧問のツテで、当時Jリーグの前身「日本リーグ」で戦っていた、「マツダ(現サンフレッチェ広島)」の入団テストを受けることに。

とはいえアンダーカテゴリーでの選出経験も0で、たしかな経歴は一切なし。

また若い頃の森保選手はフィジカルに乏しく、スピードも技術もすべて足りない平凡な選手だったそうです。

ですがその入団テストにおいて、視野の広さとバランスの良さを買われ奇跡の合格を果たします。

しかもその最終決断をしたのは、当時のマツダの監督でその数年後に日本代表監督となるハンス・オフトさんだったのです。

マツダに入社し実業団の選手として活動!

1987年、高校を卒業し晴れて実業団入りした森保一さん、

ですが会社としての評価は、その年に入った高卒採用枠の同期選手6人の中で1番下というもの。

さらにマツダ本社勤務ではなく、「マツダ運輸」という運送部門の関連会社に配属となったのですね。

そしてその会社で昼間はサラリーマンとして主に梱包の仕事を行い、夕方から実業団クラブで練習という日々。

ですがそこでも2年間ぐらいはサテライト(2軍)が主な主戦場で、なかなかトップチームに絡めなかったようです。

それでも諦めることなくサッカーに取り組み、3年目あたりから段々とトップチームの「マツダSC」の試合に出られるようになりました。

ちなみにその当時の森保さんの手取り給料は、なんと45,000円だったようです。

なのでサッカーだけでは食べられないと感じ、将来に備えて大型免許を取得したのだとか。

日本代表に抜擢され守備的MFで大活躍!

1991年のシーズンはマツダSCでレギュラーを掴み、コンスタントに出場するように。

そして現役時代の森保一監督(ポイチ)が、世間から広く認知されるきっかけになった1992年5月。

それまでマツダで監督をやっていたハンス・オフトさんが、日本代表監督に就任した初の国際大会でのことです。

相手は南米の強豪国アルゼンチンでしたが、そこに無名の森保選手を代表に招集。

タイミング的には翌年にJリーグ開幕が控え、日本が初のワールドカップ出場を目指すチーム発足の重要な一戦。

三浦知良、ラモス瑠偉、北澤豪など輝かしい経歴を持つスター集団の中、名前も聞いたことのない23歳の若者が抜擢されたのです。

実際にほとんどの代表選手は森保のことを知らず、「森保一」という感じを「モリポイチ」と読んだほど。

今でも言われる「ポイチ」というニックネームは、この若い頃に付けられたものなんですね。

そして試合ですがオフト監督は森保さんをスタメン起用、しかも先発フル出場です。

試合自体は格上のアルゼンチンに押し込まれる展開が続き0-1の敗戦。

ですがそこで輝きを見せたのが、守備的MFのポジションに入った森保一。

試合の流れを読んで縦横無尽にピッチを駆け回り、ハードな守備で相手の攻撃の目を摘みまくる活躍をみせました。

その働きは試合後に、アルゼンチンの監督や当時の世界的なFW・カニーヒヤから、「日本の17番が嫌だった」という称賛を受けるほど。

この試合を気に代表選手たちから一目置かれるようになり、また森保というプレーヤーの存在を国民が知ることになりました。

日本代表の主力としてアジアカップ初優勝!

その5か月後である1992年10月、森保一(ポイチ)さんの地元・広島にて「アジアカップ」が開催。

もちろん森保選手も日本代表の中心として臨み、見事初優勝を果たします。

これは日本サッカーが初めてアジアチャンピオンの座を手にした瞬間です。

また森保一の若い頃の現役時代の経歴の中でも、輝かしい大きな実績の1つですね。

そしてこの大会のMVPはキングカズこと三浦知良選手でしたが、記者の間では森保一さんが「影のMVP」と称賛されていたそうです。

大会終了後、あるフォトグラファーからオルゴール付の「疑似のMVP盾」がプレゼントされたのだとか。

Jリーグが開幕しプロ選手のキャリアがスタート!

1993年5月、ついに「Jリーグ」が開幕し日本サッカー界にプロリーグが発足。

所属先の「マツダSC」は、「サンフレッチェ広島」に名前を変えJリーグに加入。

現在も「オリジナル10」と名称が付いているように、当初の加入クラブは10クラブだったのですね。

社会現象ともいえるほどの未曽有のJリーグバブルの中、森保一(ポイチ)さんのプロサッカー選手としてのキャリアがついにスタート。

そしてJリーグ初年度から、現役の日本代表として森保選手は若い頃からチームの中心を担うことになります。

そんなJリーグ1年目ですが2シーズン制で、1993年5月~12月までの間に1チーム36試合を開催。

結果、サンフレッチェ広島のプロ1年目は10チーム中5位という位置でシーズンをフィニッシュしました。

「ドーハの悲劇」でワールドカップ初出場を逃す!

Jリーグが開幕した初年度、2か月間の中断期間が設けられます。

これはアメリカワールドカップのアジア最終予選が行われるためで、当然ですが森保一さんも代表に招集。

その舞台となったのはカタール・ドーハですね。

この当時は現在のようなホーム&アウェー方式ではなく、約2週間で5試合を行う集中開催方式でした。

初めてのワールドカップ出場を目指し、アジア最終予選に臨んだ日本ですが、

・第1戦目:サウジアラビアに0-0のドロー

・第2戦目:イランに1-2で敗退

・第3戦目:北朝鮮に3-0で勝利

・第4戦目:韓国に1-0で勝利

という結果で日本はグループ1位に君臨。

森保一選手も出場停止となっただった韓国戦を除く、3試合でレギュラーとして出場しチームに貢献。

そして1993年10月28日、初のワールドカップ出場を賭けた運命のイラン戦がキックオフ。

エース三浦知良の先制点からイランに返されるも、中山雅史のゴールで勝ち越しに成功。

その後は膠着状態のまま90分が過ぎ、ロスタイムへ突入。

このまま終わればワールドカップ出場という状況にて、イランが意表を突いたショートコーナー。

受けたイランFWのヘディングは放物線を描いて日本ゴールへと吸い込まれ、その数秒後に試合終了。

これが日本サッカー史上最大の事件となった「ドーハの悲劇」ですね。

この時のイランのショートコーナーに唯一対応したのが三浦知良ですが、そのすぐ後ろにいた選手は森保一だったのです。

ドーハの悲劇については森保一監督となった今も、現役時代の質問において「サッカーをやっていてあれほど悲しいことはなかった」と答えていますね。

サンフレッチェ広島で不動のボランチとしてプレー!

あと数十秒というところでワールドカップに行けないという経験を、若い頃に味わった森保一選手。

悲しみに暮れるだけ暮れた後、その語のサッカー人生において、ピッチでは1秒でも気を抜いてはいけないことを教訓とするように。

そして翌年の1994年、サンフレッチェ広島は前期の「サントリーシリーズ」にて17勝5敗の戦績で初優勝。

森保選手はチーム内でも不動のボランチとして、毎試合にわたって攻守において全身全霊のプレーで活躍。

また守備的ミッドフィルダーを基本ポジションにしながら、リベロやトップ下に配置されポリバレントさでもチームに貢献。

またオフトジャパン以降も、ファルカン、加茂周時代にも代表召集されていました。

現役の日本代表選手だったので人気・知名度も高く、多くのサポーターから「ミスターサンフレッチェ」と支持されるようになります。

会社の業績不振で京都パープルサンガへレンタル移籍

チーム発足から右肩上がりだったサンフレッチェですが、社会現象だったJリーグブームが弾け赤字化に転落。

さらに親会社でメインスポンサーの「マツダ自動車」も、深刻な経営不振に見舞われることに。

そして1997年にサンフレッチェ広島は、

・森保一

・高木琢也

・盧廷潤(ノジュンユン)

・柳本啓成

・路木龍次

など年棒の高い主力選手を、大量放出する事態となります。

そして森保一(ポイチ)さんですが、オフト監督が指揮をとる京都パープルサンガからのオファーを受け取ります。

ただプロ化する前のクラブからの生え抜きで、チームの精神的支柱。

そんな広島のバンディエラ流出を阻止するために、サポーターは必至の抗議活動へ。

その結果、京都サンガには完全移籍ではなく、期限付きのレンタル移籍へと変更となりました。

ベガルタ仙台で現役続行するも2004年に引退!

移籍先の京都パープルサンガでは主力として活躍するものの、チームは低迷し再び広島にレンタルバック。

1999年サンフレッチェに復帰するも、慢性的な怪我や若手選手の台頭によりベンチを温める機会が増える。

その後の2002年には、現役を引退してスタッフとしての入閣オファーを進められますが固辞。

その頃、京都サンガ時代に指導を受けた清水秀彦さんが、ベガルタ仙台の監督になったことで移籍のオファーを受ける。

地元・広島でキレイに引退することを考えるものの、プレーヤーとしての現役続行を優先し仙台へ移籍。

移籍先のベガルタ仙台では、経験豊富なベテラン選手としてキャプテンマークを渡され活躍。

2シーズンにわたって45試合に出場しましたが、奮闘むなしくベガルタ仙台はJ2へと降格する。

まだサッカー選手としての情熱はあるものの、所属先の仙台から戦力外通告を受ける。

そしてこれを機に2004年1月5日、35歳の時に森保一さんは現役選手としてキャリアの
終止符となる引退発表をしたのです。

森保一の監督歴・指導歴などこれまでの実績

上では森保一監督(ポイチ)の若い頃、プロサッカー選手時代の経歴を紹介してきました。

現役時代の活躍ぶりは、今もサンフレッチェ広島サポーターからは絶大な支持を受けています。

また「ボランチ」というポジションを日本に確立させた、第一人者でもありますね。

そんな森保一さんはプレーヤーを引退後、選手を指導する側へとまわります。

以下では森保さんのネクストキャリアである、監督歴・指導歴についての詳細情報を取り上げていきます。

S級ライセンスを取得しU-20日本代表のコーチに就任

まず森保一(ポイチ)さんの指導者としての経歴ですが、2004年に古巣であるサンフレッチェ広島の強化部に就任したのが始まり。

そこで若年層選手の育成を引き受けながら、JFA後任のS級ライセンスを取得します。

このS級ライセンスというのは、日本サッカー協会における最高位の指導者資格ですね。

S級取得者はJリーグはもちろん、代表チームの監督を率いることもできる難関資格です。

そして2006年には、U-19日本代表のコーチに就任。

この世代は通称「調子乗り世代」といわれており、

・香川真司

・内田篤人

・槙野智章

・柏木陽介

・森重真人

・安田理大

・ハーフナーマイク

など後の日本代表の中心メンバーとなる選手が集まっていた世代ですね。

そしてアジア予選を突破し、翌年のU-20ワールドカップにも出場。

得点後の集団コントのようなパーフォーマンスで世間から注目を集めました。

そして森保一さんですが、コーチとしてこの若い選手たちと密接にコミュニケーションをとり、選手からも信頼を集めていたとのこと。

ミシャの右腕として広島のヘッドコーチとなる!

2006年6月、セルビア出身のミハイロ・ペトロヴィッチ(通称ミシャ)がサンフレッチェ広島の監督として招かれます。

そして森保一さんは2007年9月に、トップチームのヘッドコーチへ就任。

ここから3年間にわたって、名将ミシャの右腕として執事することになったのです。

森保一さんの監督歴・指導歴の中でも、最大級に影響を受けたのがこのミシャでしょうね。

そこから長きにわたってJリーグを席巻する独自戦術「ミシャ式」を、スタッフとして一番近くで学ぶことができました。

とはいえサンフレッチェ時代のミシャ政権は、現在のような常勝・洗練されたスタイルではありませんでした。

2007年にナビスコカップ準優勝を獲得するものの、J2へとチームを降格させるなど試行錯誤の連続。

後に後任となる森保一監督(ポイチ)はペトロヴィッチのことを、「紫の畑に種を蒔いた人物」と称しています。

監督としてサンフレッチェ広島を3度の優勝に導く!

2010年に「外で勝負がしたい」として、アルビレックス新潟のヘッドコーチに就任。

ですが2011年には、サンフレッチェ広島の経営悪化を受けてペトロヴィッチが解任されてしまいます。

そしてその後を引き継ぐ形で、2012年に森保一(ポイチ)さんは古巣に舞い戻ります。

森保さんの経歴の中で初めての監督歴が付いた瞬間であり、この就任以降サンフレッチェ広島は黄金期を迎えます。

前任の「ミシャ式」である可変型3-4-2-1フォーメーションに、守備の部分をオリジナルにアレンジ。

また自分から歩み寄って選手の話を聞なくなど、普段からコミュニケーションを絶やさず信頼関係を構築。

・青山敏弘

・佐藤寿人

・浅野拓磨

・森崎和幸

・森崎浩司

・浅野拓磨

・高萩洋次郎

などの選手たちはいわゆる「森保チルドレン」として知られた存在ですね。

そして全てが上手くかみ合い、なんと監督歴・キャリア1年にしてサンフレッチェ広島をJ1年間優勝に導いたのです。

さらに翌年の2013年は最終節で劇的な逆転優勝を果たし連覇、2015年にもチャンピオンシップでガンバ大阪を下し年間優勝。

就任4年目にして3回のリーグ制覇を果たし、日本人監督の中では最多優勝の記録を達成。

こんな感じで森保一監督率いる広島はJリーグ最強の名を欲しいままにし、日本サッカー界の歴史に残るような大旋風を巻き起こしたのです。

東京五輪に臨むU-23日本代表の監督に就任

若い頃には完全な無名でしたが、現役時代に日本代表にまで上り詰め、指導者としての経歴・実績も十分な森保一監督。

2017年にサンフレッチェ広島の監督から辞任し、同年10月には東京オリンピックに臨むU-23日本代表監督へ就任します。

これで森保一さんは、アンダーカテゴリとはいえ日本代表の監督歴が付け加えられました。

これについて、その頃の日本代表周辺ではA代表における「日本人監督待望論」が多方面から巻き起こっていました。

なんといっても記念すべき東京五輪にて、史上初の金メダルを目標とするチームのリーダーです。

時期A代表監督の有力候補として、日本サッカー協会が森保一監督に大きな期待をかけていることが分かります。

五輪兼任で西野ジャパンにコーチとして帯同!

2018年4月、ロシアワールドカップを2ヶ月前に控えたタイミングでハリルホジッチ監督が電撃解任。

その後任として西野朗さんが監督の座に就任。

さらに森保一(ポイチ)さんはオリンピック代表監督を兼任しながら、コーチとして西野ジャパンへと帯同することに。

あまりにも短い準備期間でしたが選手・スタッフ共に一丸となり、代表チームを盛り立てます。

そしてワールドカップ本番、コロンビア・セネガル・ポーランドを相手に1勝1敗1引き分けの勝ち点4で予選を突破。

迎えたトーナメント1回戦の相手は、優勝候補で当時のFIFAランキング1位であるベルギーでした。

世界トップレベルの強豪との真剣勝負でしたが、後半に原口と乾のゴールで2点を先制。

その後に猛攻を仕掛けてきたベルギーの勢いに飲まれ2失点、さらにロスタイムにはすさまじいロングカウンター。

日本初のベスト8まであと一歩というところで、劇的な逆転負けを喫してしまいました。

この決勝点となったベルギーの3点目は、森保監督(ポイチ)が現役時代に経験した「ドーハの悲劇」同様に「ロストフの悲劇」と呼ばれていますね。

そんな日本国中が悲しみに暮れる幕開けでしたが、得難い経験をしたことも間違いありません。

特に森保一さんにとっては若い頃に選手としてドーハ、指導者としてロシアと2つの悲劇の当事者ですからね。

そしてこのロシア大会終了後に、森保さんの指導歴の中でも最高のキャリアが待っていたのです。

日本代表監督に就任しカタールワールドカップに挑む!

ロシアワールドカップ終了後の2018年7月、森保一(ポイチ)さんが日本代表の監督に就任。

しかも年齢制限のないA代表と、東京五輪を戦うU-23代表の両方を兼任。

2つの日本代表監督を兼任するという経歴の人物は、2002年のフィリップ・トルシエ以来で史上2人目。

現役時代に代表選手として活躍し、短い監督歴の中でJリーグにおいて最多優勝タイ記録の持ち主です。

西野朗さんの次に日本人で選ぶとするなら、実績からして森保一監督以上の人材は他にいないでしょう。

そんな感じでサッカーファンから多大な期待を受けて始まった森保ジャパンですが、やはり現実は甘くありませんでした。

兼任で臨んだ東京オリンピックは、スペインとメキシコに敗れてメダル獲得ならず。

勝って当然のアジア最終予選でも、序盤に2敗して予選脱落の危機に瀕しました。

各メディアやサポーターからは、「解任しろ」「やめろ」「無能」などの辛辣な批判を受けたことも事実ですね。

ですがそれでも、カタールワールドカップの出場権は無事に確保。

また意外かもしれませんが、森保ジャパンは歴代日本代表の中で最高の勝率を記録しています。

またベテラン選手の経験を頼りにしながらも、多くの若手選手を積極的に起用して、才能を開花させたことも間違いありません。

ワールドカップ本番では、ドイツ・スペインという世界トップレベルの強豪校と同組になっています。

ですがそれでも死力を尽くして勝利を手にし、悲願でもあるワールドカップベスト8という目標を達成してもらいたいですね。

森保一監督(ポイチ)はどんな人?性格・人柄が分かるエピソード

ここまでサッカー日本代表を率いる、森保一監督(ポイチ)の現役時代と指導者としての経歴を紹介してきました。

そんな森保さん自身は、一体どんな人なのか気になる方もいるでしょう。

まず見た目や態度から人柄も一目瞭然なのですが、超がつくぐらいの真面目な性格です。

日本代表監督就任会見でもファンやサポーターだけでなく、スポンサーの名前まで出して感謝の言葉を述べるくらい。

その誠実な姿勢は、若い頃からずっと変わっていませんね、

たとえば森保さんの現役時代は、華やかなJリーグバブル真っただ中です。

昨日まで誰も知らなかった選手が、いきなり周囲からスター扱いされるような時代。

高級外車を乗り回し連日クラブで大騒ぎ、女性関係腕もモデルや女優さんと浮名を流すJリーガーは山ほどいました。

特に日本代表選手となるとそれだけで大勢の人が寄ってくるわけですが、そんな環境でもサッカー以外は普通の生活です

そんな感じでプロとしてストイックに競技に打ち込み、他人に対しては謙虚で常に低姿勢。

クラブスタッフはもちろん社員や裏方の人間に対しても、自分から声をかけて挨拶をしていたとか。

そんな人柄・性格は監督業の方でも活きており、まず選手の気持ちになり話があるなら徹底して聞く側に回るとか。

監督としての威厳を保つために、選手とは一定の距離を置くのが通常ですが森保監督は違うようですね。

そんな人柄を持つ監督だからこそ、選手たちも「この人のために!」という気持ちが強く働くのでしょう。

特にサンフレッチェ広島の教え子たちは、今でも森保一監督に対して敬意と感謝の言葉を述べています。