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佐々木朗希の高校時代の成績や球速・身長など徹底解説!決勝の登板回避についても


千葉ロッテマリーンズ所蔵の現在20歳、「令和の怪物」佐々木朗希選手。

プロ3年目となる2022年、NPBでは28年ぶり16人目の完全試合を達成。

「日本人史上最高のピッチャー」という専門家も現れ、メジャーからは早くも熱い視線がおくられています。

そんな佐々木朗希選手の高校時代の成績や登板した試合の結果、最高球速や身長などを詳しく紹介していきます。

佐々木朗希の高校はどこ?入学の理由なども紹介

佐々木朗希選手の出身高校についてや、野球部の3年間でどのような結果を残したのか?

また野球強豪校からのスカウトを断ってまで進学した理由なども併せて紹介していきいます。

佐々木朗希の出身高校は岩手県の大船渡高校!

まず佐々木朗希選手の高校はどこなのかですが、これは「岩手県立大船渡高等学校」になります。

この大船渡高校は学科が普通科のみで偏差値は約52、男女共学のどこにでもあるごく普通の公立高校です。

そして大船渡高校野球部の過去の実績ですが、1984年に春と夏の甲子園に出場しています。

時に第56回春の高校センバツ野球では、全国的に無名ながらベスト4に進出。

エースの金野正志選手や主砲の鈴木嘉正選手を中心に攻守バランスの取れたチームで、その快進撃は「火の玉野球」と称されたほど。

ですが輝かしい実績は35年以上も前の1回のみで、近年では岩手県予選においても3回戦~準々決勝レベルに甘んじていました。

そんな中、後に「令和の怪物」と称される佐々木朗希さんが大船渡高校へ入学、それが2017年4月のことでした。

甲子園出場どころか東北大会にも進めなかった

佐々木朗希選手率いる大船渡高校野球部の成績・試合結果について。

公式戦の細かなデータなどは後に紹介しますが、結論からいうと甲子園出場どころか東北大会に出ることもできませんでした。

というのも岩手県には、大谷翔平選手や菊池雄星選手などを輩出した甲子園常連校の花巻東高校が存在します。

さらに盛岡大付属高校、専大北上高校、一関学院など高校野球において全国レベルの強豪校がはひしめきあっているんですね。

もちろん佐々木選手はエースとしてだけでなく、4番としても大車輪の活躍をします。

ですがそれでも、地方予選すら突破することはできず。

実際に悲願達成まであと一歩のところまではいきましが、ハイレベルな近年の高校野球は甘くなかったですね。

大阪桐蔭・花巻東などの強豪校に入らなかった理由は?

佐々木朗希さんは大船渡一中時代から、最速140km超えの中学生としてすでに地元では有名な選手でした。

なので花巻東や盛岡大附属など、県内の名門私立校からは当然オファーがありました。

さらには高校野球日本一といっても過言ではない、あの大阪桐蔭からもスカウトを受けていたようですね。

直々に監督が岩手県に出向き、何回にもわたって口説いていたという噂があります。

ではなぜ佐々木朗希さんは、自身の高校野球の舞台として大船渡を選んだのでしょうか?

大きな理由としては2つあり、

小学校~中学時代からの地元の仲間と一緒に、甲子園に行きたいと思ったからです。

佐々木選手は気心知れる仲間と一緒に、有力な球児を全国から青田買いしている私立高を倒したいという野望を持っていたようですね。

実際に地域の中学生を集めた「オール気仙」では、東北大会で準優勝し全国大会まで出場しています。

中学年代のこととはいえ、このチームメイトとなら高校でも「岩手県を制することができる」と思っても不思議ではありません。

そして佐々木朗希さんの呼びかけにより、

キャプテンを務める千葉宗幸選手、一緒にバッテリーを組む及川恵介選手、チームの主砲である木下大洋選手など、

当時のオール気仙のメンバーが、10人も大船渡高校に集結したのです。

2つ目の理由としては、地元のメンバーで岩手県を少しでも盛り上げたかったということ。

というのも佐々木朗希さんは、2011年東日本大震災での津波によって父親と祖父を亡くしています。

被災当時はまだ小学3年生でしたが、多くの人から助けを受けたことと野球という存在によって失意の底から立ち直ることができたとか。

そんなことがあったからこそ大阪桐蔭でもなければ、野球推薦で県外からの選手をガンガン引き抜く名門私立高でもないわけですね。

もし岩手県で育った地元の野球選手だけで甲子園に行くことができたら、それは住民にとって大きな希望となりますからね。

あとこれは個人的な推測ですが、3つ上の兄である琉希さんも大船渡高校の野球部だったことも、理由の1つのような気がしますね。

佐々木朗希の高校時代の身長・背の高さは?

佐々木朗希投手は高身長かつ手足が長く、ピッチャーとしては理想的な体型をしていますよね。

そんな佐々木朗希さんの高校時代の身長ですが、1年生・入学時には185cm~186cmあったのです。

日本人男性の平均身長が171cmと考えると、この時点でもかなりの大型です。

さらに中学時代から成長痛や腰の故障に悩まされていた佐々木さんは、病院で精密検査をしたところ、まだ骨端線が残っていることが分かりました。

この骨端線というのは骨と骨の間の軟骨のことで、これがまだ存在しているということは、背が伸びる可能性が高いということ。

これはまだ成長段階にあり、体を酷使・負担をかけすぎることはできないということです。

後述しますが、その事実を知った大船渡高校の国保陽平監督は、佐々木朗希さんの起用に慎重になり後に大きな騒動となります。

ただし佐々木朗希選手が高校を卒業してプロ入団時の身長は190cmなので、実際に高校時代で4cm背が伸びたことになりますね。

そしてだいたいの人が18歳で成長が止まり、それ以上背が高くなることはありません。

ですが佐々木朗希選手はこれとは違い、千葉ロッテに入団~20歳までの2年間で、190cmから192cmとさらに2cmも背が伸びているのは驚きのひとことですね。

佐々木朗希の高校時代の球速はどれぐらい?

ロッテの佐々木朗希選手は、抜群のコントロールかつ平均球速約160km。

変化球も150kmに迫るフォークとあわせて、異次元の投球をみせてくれる唯一無二の存在です。

さらにこのままプロで順調に成長し続けたなら、最速170kmも夢ではないという専門家もいるぐらいです。

そんな佐々木朗希さんですが、高校時代の球速はどれぐらいだったのかをみていきましょう。

高校1年時:地方予選で衝撃デビュー!

大船第一中学から鳴り物入りで入ってきた佐々木選手ですが、まだ体が出来上がっていないということで、試合への出場は控えられていました。

そして迎えた2017年7月8日の岩手県予選2回戦、盛岡北高校戦で初登板を向かえます。

4-3の8回2アウト2塁,3塁という一打逆転の状況でリリーフとして登場し、3三振の無安打無失点。

投げた球はすべて140km超えで、9回には最高速の147kmをマーク。

チームは次戦の3回戦で敗退しますが、怪物ピッチャーとして華々しいデビューを飾りました。

高校2年時:エースに君臨してプロスカウトも唸る怪物ぶり!

高校2年になった佐々木朗希は、背番号1番を付け名実ともにチームのエースとして活躍。

夏の甲子園県予選の初戦・盛岡三戦では最速154kmをマーク。

この頃には「岩手にものすごい化け物がいる!」と評判になり、試合があるごとに数多くのプロ球団のスカウトが通うように。

そして2018年9月16日の岩手県秋季大会1回戦で、自己最速を記録した時と同じ対戦相手の盛岡第三高校と激突。

佐々木朗希選手がマウンドに上がり、9回を6安打11奪三振で完封勝利。

そして初回5球目のストレートで、最速157kmを叩き出しました。

この球速157kmというのは、2013年夏に済美高校の安楽智大選手と同様に、高校2年生の歴史上最速タイとなる記録です。

高校3年時:U18日本代表合宿にて歴代最速を記録!

高校3年生となった佐々木朗希投手は、いち東北の公立高校の選手ながらすでに全国区として名前が知られ、「高校BIG4」と呼ばれるまでに。

そして「U18ベースボールワールドカップ」に出場する、U18日本代表の20人に名を連ねます。

そして2019年4月6日に日本代表合宿の紅白試合に登板し、横浜高校3年生の内海貴斗選手に対して投げた3球目。

スカウトのスピードガンによるもので非公式ではありますが、なんと球速は163kmをマークしたのです。

これは花巻東高校時代の大谷翔平さんの球速160kmを超え、高校生歴代最速となり現在も破られていません。

あまりの速さに捕手を務めた中京学院大中京の藤田健斗選手が、佐々木の投球で指が裂けたというニュースまで流れる始末。

そしてこれ以降、佐々木朗希選手は「令和の怪物」と呼ばれることになったのです。

佐々木朗希の高校時代の成績・試合結果を一挙紹介

それでは次に、佐々木朗希選手の高校時代3年間の成績について。

登板した公式戦において、確認可能なデータを紹介していきます。

高校時代においても登板した試合では、ほぼ確実に結果を出しているのがよく分かる内容となっているので佐々木ファン必見です。

【高校1年時】

(第99回 全国高校野球選手権岩手大会)

・2017年7月8日 2回戦「大船渡5-3盛岡北」:1回1/3を3三振の無安打無失点

【高校2年時】

(2018年春季高校野球 岩手県大会沿岸南地区予選)

・2018年5月4日 地区予選代表決定戦「大船渡9-2大船渡東」:1回を3三振の無安打無失点

・2018年5月19日 1回戦「盛岡中央3-2大船渡」:8回7安9奪三振2失点

(第100回 全国高校野球選手権岩手大会)

・2018年7月10日 2回戦「大船渡11-2盛岡三」:9回4安打11奪三振2失点

(2018年秋季岩手大会)

・2018年9月16日 1回戦「大船渡5-0盛岡三」:9回6安打無失点11奪三振

・2018年9月19日 準々決勝「大船渡4-1黒沢尻北」:9回3安打1失点15奪三振

・2018年9月23日 準決勝「盛岡大付7-5大船渡」:9回10安打7失点10奪三振

・2018年9月24日 3位決定戦「専大北上11-10大船渡」:2回3安打2失点

【高校3年時】

(第101回 全国高校野球選手権岩手大会)

・2019年7月16日 2回戦「大船渡14-0遠野緑峰」:2回を2三振の無安打無失点

・2019年7月18日 3回戦「大船渡10-0一戸」:6回無安打無失点13奪三振

・2019年7月21日 4回戦「大船渡4-2盛岡四」:12回7安打2失点20奪三振

・2019年7月24日 準決勝「大船渡5-0一関工」:9回2安打無失点15奪三振

佐々木朗希の県予選決勝での登板回避について

上では佐々木朗希さんの高校時代の具体的な成績や、公式戦の試合結果を紹介しました。

ここでピックアップしたいのが、夏の甲子園岩手県予選決勝の対花巻東戦。

後に大きな騒動として社会問題にまで発展したこの一戦にて、どのようなことがあったのでしょうか?

国保陽平監督が起用しないことを当日朝に決定

大船渡高校が35年ぶり、悲願の甲子園出場まであと1勝という大舞台。

2019年7月25日、岩手県大会決勝の対戦相手は絶対的王者である花巻東高校です。

チームの総合力では劣る相手に、令和の怪物・佐々木がどのような活躍をみせるのか多くの野球ファンから注目を集めた一戦です。

ですが大船渡の国保陽平は、ここで予想外の決断をするのです。

それはエースの佐々木朗希をマウンドには上げず、さらに野手として起用することもないということ。

この登板回避の理由なのですが、試合当日の朝に佐々木さんの歩いている姿などを見て、「使うと壊れる可能性がある」と判断したからだとか。

国保監督は佐々木さんが将来的に世界の野球を変えるような存在になると、才能を見抜いていました。

そしてこれまでも、ピッチャーの命である肩やひじはもちろん、一挙手一投足を毎日観察し続けていたのですね。

そんな国保監督だからこそ、甲子園の切符を賭けた重要な一戦だとしても「使わない」と判断できたのでしょう。

登板回避の旨は試合当日の朝に本人に直接伝え、それを聞いた佐々木朗希さんは笑顔で「分かりました」と答えたそうです。

その結果、12-2という点差で大敗し大船渡高校の甲子園の夢は潰えたのです。

東花巻戦での不可解な采配の連続について

上で県予選決勝での、佐々木朗希選手の登板回避についてザっと紹介しました。

なにわともあれ、令和の怪物が甲子園の土を踏むことができるかどうかの注目度が極めて高い一戦。

「日本の宝を守った英断」という人もいれば、「1人のためにチームが犠牲になった」という人もいて賛否両論です。

ですがその声の中には、

・決勝のマウンドに上げないまでも、4番打者でもある佐々木を野手としても使わなかったこと

・2番手・3番手の投手ではなく、大会初登板の4番手を先発に使ったこと

・6回9失点までその4番手投手を引っ張り続けたこと

・その後に5番手の投手をマウンドに上げたこと

というような、対花巻東戦における国保監督の不可解な采配についても述べられています。

この采配について、「最初から試合を投げていた?」「八百長だったのでは?」という過激な声も混じっています。

エースが投げずに敗退ということがインパクトが大きすぎて、これらの点についてはあまり騒がれなかったのですが、たしかに疑問点は多いですよね。

これらについて調査しましたが、

まずチームの4番・主砲で好打者でもあった、佐々木朗希選手を野手として起用しなかった点。

これはたとえ野手であっても球を投げる機会があり、それによって怪我につながる可能性があるからとのことです。

この答えから推測するに、国保監督の目からみて試合当日の佐々木選手はかなり危うい状態にあったのだと思われます。

次に当時の大船渡高校には、佐々木選手には実力が及ばないまでも、2番手に和田吟太選手、3番手には大和田健人選手がいます。

なのにこの2人ではなく、チーム4番手の控え投手で予選初登板の柴田貴広選手を先発マウンドに上げたのはなぜでしょう?

これについての回答ですが、和田・大和田選手共に、県予選のこれまでの登板で精神的にも肉体的にも疲労がみえていたこと。

さらに対戦相手を徹底的に分析する花巻東高校の裏をかくために、情報が少なく変則的な投球が得意な4番手を使った。

結果として大差で負けてしまいましたが、あくまでも試合に勝つための戦略だったようですね。

リリーフとして2年生で5番手の前川真斗選手を使ったのも、それが理由だったのでしょう。

登板回避での佐々木朗希自身の本音は?

佐々木朗希選手は決勝でチームメイトたちが戦う姿を、ゲーム終了までベンチに座って眺めていました。

先述してますが、試合に起用しないことは国保監督から告げられました。

この登板回避については、事前に本人の意志や考えを聞いたり、話し合いがあったわけではなかったようですね。

それでも佐々木朗希選手は、1つも不満を漏らすことなく了承したそうです。

ですが試合は大敗し、甲子園の夢を掴むことはできず、高校時代3年間の野球人生が終了したわけです。

この事実について、本人の本音はどうなのでしょうか?

まず佐々木朗希選手は中学時代に腰を疲労骨折した経験から、肩やひじに対しては人一倍敏感でした。

投球前に入念にストレッチをすることは当然で、マウンドでも脱力し100%の力で投げないこと。

変化球も高校時代はスライダー中心で、決め球であるフォークもほとんど使用していませんでした。

故障や怪我には常に注意を払い佐々木さんを指導していた監督に対して、決勝後のインタビューで「ありがたかった」と感謝の言葉も述べています。

ですが高校野球で燃え尽きるわけにはいかないという想いはありながらも、やはり花巻東戦では投げたくてしょうがなかったと思います。

冒頭でも書いていますが、大阪桐蔭などの名門校からのスカウトを断り、地元で甲子園を目指すことに強くこだわっていました。

また佐々木選手がいたからこそ、大船渡高校に入学した同級生も少なくありません。

悲願まであと一勝という状況の中で、チームが敗れていく様をベンチで見守るしかなかったという事実は、心が張り裂けそうになるぐらい辛かったでしょう。

多くは語らないものの終了後の問いかけには、「投げたい気持ちはあった」とひとことだけ答えているのが印象的でした。

佐々木朗希は地元の期待を背負いプロの舞台で輝く!

この大船渡と花巻東の一戦については、多くのファンの間で物議を醸します。

さまざまな論争に発展したのですが、それらは佐々木朗希選手の注目度や期待がいかに大きかったかを表していますよね。

そしてこれはロッテに入団してからなのですが、「高校野球はやりきった?」と質問を受け、佐々木選手は「半々」と答えています。

そんな感じで少し不本意だった高校3年間が終わり、いよいよ次の舞台へと進むことになりました。

2019年10月17日、2019年度のプロ野球ドラフト会議が開催。

会見の舞台だった三陸公民館は、大船渡高校から15kmも離れた場所にありましたが、そこには野球部のチームメイトが集結。

パ・リーグ4球団が佐々木朗希をドラフト1位で指名し、くじを引いたのは千葉ロッテマリーンズでした。

岩手の片田舎から球界最注目のスーパースター誕生の瞬間です。

ですがやはりあの決勝での登板回避のこと、また身近な人物が遠い場所に旅立っていくこともあって、そこに集まった人たちの内心は千差万別です。

とはいえ会見後に、佐々木さんはチームメイトから胴上げの祝福を受けます。

そしてチームメイト全員が寄せ書きした大船渡高校のユニフォームを、卒業前にサプライズでプレゼントされます。

そのユニフォームは佐々木さんが千葉ロッテの寮に入った時の持参物として、取り上げられていました。

それ以降、完全にプロ野球選手としての道を歩む佐々木朗希選手。

そして迎えた2年目の2021年5月27日、対阪神戦での先発としてマウンドに。

5回を7安打4失点という結果で、高校時代に行けなかった甲子園の舞台で記念となるプロ初勝利を収める。

そして3年目には、史上最年少で完全試合という大記録を達成。

この活躍をテレビで見ていた当時の仲間たちも、「朗希の活躍で救われた気になる」という言葉を残しています。

また自分の活躍によって地元が大フィーバーしていることも、地元愛の強い佐々木朗希選手にとっては嬉しいことでしょう。

類まれなる才能を持つ令和の怪物は、これからも多くの人の想いを背負いながら躍動してくれるに違いありません。